世間という見えない壁
■ 世間とADHD ■
外国の方に「普通」とは何かを説明する前にまず前提条件として「世間」という概念を説明している記事を読み、僕の胸に何かがストンと音を立てて落ちてきた。
それは、僕が長年感じてきた息苦しさ、窮屈さ、生きづらさに、不思議と繋がっていた。
日本人は清廉で非常に繊細とされる。その実、異物のない清潔で保守的な環境になにより安堵する。
それは何故か? 閉鎖的な島国だから?
いやいや。そう、この国の民は総じて世間に倣い従うべしとされているからか。僕はそう気づいたのだった。
知覚できない同調圧力
ADHDがなぜ社会不適合とされるのか、は、僕の経験からいくと、まずこの抽象的な「世間」を認識或いは理解できないからだと推測される。
現にADHDな僕は、昔から世間という概念がとんと理解できず、未だに迎合できないままでいる。
ありとあらゆる場面に存在するという無色無味無臭で不定形なそれを、どういうわけか健常者は知覚できるらしいのだが、僕には一切感知できない。
一体全体、世間ってやつは、どこにいてどこにあるんだ? みんなって誰? 普通って何? 僕には見えない、わからないよ……なぜ他の人はそれがわかるんだろう?
誰か教えてくれないもんだろうか。そも、認識すらもできないわけだから、教わっても理解できるわけもなく。
この目に見えない枷とも思える謎の枠組みを僕が感じ取れるようになるのは、現在の医療技術の限界からしてもおそらく無理なんだろうと思う。
斯様にして見えないさわれない世間と呼ばれる何某かを、どうにかして見よう感じ取ろうと無駄に神経を使い、僕は日々疲れているばかり。
世間の正体
そも、世間とは何だろう?
世間とは元々、仏教用語だったらしい。宗教に無頓着な国なのにな。と思わずにはいられない。
日本人は信仰に篤い人が少ないくらい特段宗教に拘りのない国なのだが、それに代わる世間という概念にいたく従順なのだ。
世間とは、輪であり、和であり、把であり……漠然としていながら調和の取れた意思の集合体のようなもの。当然見えないし、聞こえない。触れることもかなわない。
この国では言葉を発しなくとも、その場の雰囲気がよしとするならば、万事よし。と暗黙の了解で何事もそれなりに回ってしまうのだ。
恐ろしいことに、全てにおいて、何が起きたかわからないうちにことが運び、それが総意といつの間にか決められて、ひいては共通認識、時には常識とされていくという、聞いたまま見たままに事象を受け止めてその裏に何か意味があろうとも読み取ることが難しい特性を持つADHD達には、到底ついていけない厳しい世界なのだった……。
※余談。世間とは相互監視社会と取る意見もある。そりゃADHDにはわかんないわー。普段から他人の監視できるようなお味噌の作りでないから、自分が監視されてるって自覚ないもん! 健常者ってそんなことしてる余裕あるんだな、そっちのが衝撃だった……
日本という国はADHDに厳しい
ご近所に、出先に、公園に、店に、仕事に、組織に、社会に、ひいては友人知人に、家族間にも在るというくらい日本中に遍く染み渡る世間の概念は、西洋における社会システムとは違い、そもそも個人というものを許容していない。
個人がどうあるべきより先に、まず世間の中に自分が居り、そこから弾き出されないよう絶えず自然な所作を心がけ身に付けよと躾けられ教育される。
と書くと妙に不自然に聞こえるが、目立たぬよう、皆と同じになるよう、出過ぎず下がり過ぎず足並みを揃え、無言の同調圧力に逆らわず、そこに在る縛りや雰囲気を察し、その場に適応すべく、馴染み溶け込み、まわりに違和感を感じさせないことこそが自然で好ましいのだ。
皆が同じであるとわかると、そこに居心地の良さと安心感が生まれ、それを保つように周囲が不思議と阿吽の呼吸で支え合う。
それが標準的なものや常識とされ、全てにおける前提条件、普通になり当たり前というヤツになる。
日本の心は侘びとかサビとか勿体無いとかそんなもんじゃなく、世間に端を発する集団心理や連帯感だった。それが全く感知出来ない僕にはまさに衝撃だ。そりゃ孤立もするさ。
日本の会社なんてまさにそんな感じで、上司を立てるだの失礼のないようにだの、仕事に関係ない気遣いとやらを最大限に要求される。
たとえ非効率であろうとも慣習や通例を重んじ、それに倣い、看板に傷をつけぬよう、轍から外れない範囲で活動する。そして後世にまで古い因習を押し付け、こうするのが正しいのだと強制する。そんなんやめたら?と言おうものならお前だけ皆と違うと袋叩きにされる。社内の常識は世界から見れば非常識なのに。
会話以前にまず空気を読むとされ、いくら現場が混迷を極めていても、責任者らに上がってくる報告には真実が目上の機嫌を損ねぬよう部下の配慮やら忖度やらのオブラートにくるまりまくっているものばかりで、実のところは慢性的な情報不足。そりゃ判断も鈍るし采配ミスも起きるだろう。
それでいて失敗した時は謎の連帯責任。不始末を起こした本人でない者までが方々へ頭を下げて回る。いったい誰に?……世間ってやつに。当事者が許しても世間様が許さない。すみません、とはなにをどういうことか? もしや世間だとそれじゃ済まされないということかな……結局そんなこんなで誰も責任も取りたがらないんで、改善策を具申するとじゃあお前がやれよとかね。ここまでくるともはやワケワカ、主に僕が。
そんな熾烈な環境で余計なことに神経をすり減らしながら身を粉にして働いても、組織に馴染まないことが時には昇進の妨げにもなる。仕事ができるかどうかというのは評価基準にならないし、成果のほとんどは上司のものとされて、目立つと妬まれ嫉みやっかみの嵐、ストレートな意見や指摘は組織に対する否定や攻撃と受け取られ、異端とみなされ煙たがられて、やがて枠から外れる浮いた存在となるのだ。
至極当然のように出る杭は打たれる、何故なら世間からはみ出しているんだもの。
それほどまでに個を殺し滅私奉公するよう求めておきながら、自分の身に何かあった時には何もしてくれないしクビにすらなるというこの理不尽さよ。
日本企業の生産性の低さの根底には、きっとこの世間の概念があるんじゃないのかな。なんて言ったら、僕は殺されるだろうか。
臭いものには蓋をする民族
個人よりも世間という謎で曖昧な集団心理がまず尊重されるのは、本当に非効率で窮屈で、辛抱堪らん。
などと考えるADHD達の言動を指摘する前に、そもどうして皆に受け入れられないのか、という状況説明が必要なのは、この国の健常者にはとかく煩わしいらしく。
だったら最初からデキる奴だけがまわりに居ればいいわけで。どうも、無自覚に和を乱す者を諭す時間が勿体無いと考えるようだ。
日本人はなにより不和に敏感で、なんらかの異常を察知すると声を発するよりも先にまず素早く異分子を遮蔽し迅速に隔離する防除技能に長けている。
やーコイツおかしい要らねえわ、もう隔離でいいよなって即座に村八分……コミュニティの大小を問わず、そこから爪弾きにしてしまう。
それは身内すらも「世間様に顔向けできない」と呪詛のように唱えながら異端が世に出ることのないよう閉じ込めて社会から隔絶してしまうレベルに潔癖なのだ。
他国の人たちから見ると、障害者に対する謎の冷たさや無碍な扱いは驚きに値するかもしれないが、日本では世間の基準にそぐわないものに合わせる義理などない……今までがそうだったから、これからもそうあるべきなのだろう。そうやって、世間によって、様々な知識や技術や伝統が守り伝えられてきたんだよな。
それが、日本というお国柄なんだろうとさえ思えてくる。なんとも馬鹿らしい話、かもしれなくも、ないような、さてはて。
嗚呼、こんな民族性の中でAが息苦しく、生き苦しくならない日は、いつか来るのかなあ……。
■ ADHDが生き延びるには ■
世界と世間の軋轢
少しだけ、僕が望みを託したくなるのは。
世間という概念は、昭和まではうまく機能してきたが、平成の世からはいささか時代遅れ感が出てきつつあるというところだろうか。
著しく進むグローバル化の波が一気に押し寄せ、高度情報化の時代に入り、時代はいままでのような閉じた世間を大きく揺さぶっている。
誰もが容易に情報にアクセスでき、共有でき、伝達できる世界のスピード感に、世間はこれまでになく揉まれ、揺れている。
いままでは、世間に受け入れがたいものは拒絶すればよかった。それで和が保たれた。現状維持、いつもと同じでいれば安心していられた。皆が守られてきた。
だがしかし、これからはそうはいくまいよ。現状維持ってのは、常に進歩する世界から見れば、停滞を通り越してむしろ退化に等しいから。
おかしな話だよね、日本に古来から伝わる神道には、繰り返し新造することでいつの世であっても在りし日の姿で居続ける古くて新しい常若という素晴らしい思想があるのに、さ。
いま、日本の世間は型遅れで古臭く狭量でもはやスタンダードとは言えず、刺激に溢れ絶えず新陳代謝が繰り返されて都度見解が改められ光速で進化し日々目まぐるしく生まれ変わる世界の最先端からこぼれ落ち、追いつけぬまま徐々に取り残されつつある。人体は半年で全ての細胞が新調され御身の生命活動を維持継続するというのに、だ。
常若の思想とやらは、どこへいってしまったのか。八百万の神々への信仰心とともに、悠久の時を経て薄らぎ消えていったのか。はたまた。
対してADHDは、特性のひとつである電光石火の閃きでブレイクスルーを起こし、この時流に乗れそうな気がしてるんだけどな。
そう、世間に囚われることなく、世界からの刺激に呼応し、臆することなくアクションを起こしていけば。
世間ではいまひとつであったとしても、世界には認められるんじゃ、ないだろうか。
どうだろう。
僕の気のせいかな。
特化型人材の活用
雇われではなく業務委託になって、雑務どころか複雑な人間関係や社内ルール等の煩わしさからも解放され、純粋な作業のみに集中できるようになった僕は、明らかに仕事が捗るようになった。以前と変わったのは雇用形態そこだけ、なのに。
発達障害者は時に過集中と呼ばれる状態にもなり得る。逆に注意力散漫ということは、他の人が気にならないことにも反応するセンサー感度の良さとも考えられないだろうか。
適材適所という言葉があるが、集中力を乱す雑音を極力取り除いて全神経を一点に振り向けてやるだけで、発達障害者は常人を超えるトップスピードに乗り最大パフォーマンスでかつてない成果を叩き出すことも不可能ではないのだ……これに気づいた管理職は世にどれほどいるだろうか?
汎用性に欠けてつぶしg…失礼、融通の利かないスペシャリストよりもTPOに合わせてこき使えr……おっと、柔軟に運用できるジェネラリストを求める傾向のある日本企業でそこに着眼してる会社って、あまり見かけないと思うよ……。
人件費をコストと捉えたり業務効率を過剰に重視していると、多分見落とすポイントだもの。
なにより、まず世間にはないもの、だからねぇ。
尖った人材を活かせるようなニッチな業務改革が、起きないかなあ。
社内ルールの適用範囲と不平等感
特化型の人材を活用しようと考えた時、障壁となりやすいのが、既存労働者たちが訴える不平等感だろう。
おそらく社員全員に適用しているであろう掃除当番やお茶汲み担当などの社内規則には載らない社内ローカルルール、コレを一切適用除外するだけで効率が倍加する特化型人材がいるとしよう。
その代わり、本人と話し合い同意を得た上で雇用条件に待遇格差を設けたとする。例えば、汎用性の高い健常者たちと比較して低い賃金などが考えられる。
世の中とは実に不平等なものであり、このように最初からスタートラインが違えば、不平等が生じるのは当たり前なのだ。多くの人々が持てる者と持たざる者に生ずる財産の量などを日々実感しているだろうに。
それでも既存の労働者たちは、こう言うのだ。
「あのひとだけアレをやらなくていいなんてズルい!」
そう、世間の概念に繋がる皆同じ・平等・均等に安心する彼らは、君たちとは待遇に差があるといくら説明したところで、自分たちと相容れない異端者の存在を認めない。どころか、異端者にも同じ扱いを求めるのだ。
そして、特化型人材を村八分扱いし、時にはいじめ、迫害し、結果的にそこでは働き続けられないように追い込んで、辞めさせてしまうのである。
……渋々従ってるんだったら、そんなローカルルール、止めりゃいいのにな。
よくある話だと感じないだろうか? 離職理由の多さに人間関係の問題があるが、そう、これはその一例なのだ。特に発達障害者にありがちな、ね。
ここは管理職が、彼らに納得がいくまで充分な説明をし、不当な扱いをせぬように指導管理徹底しなければならないところなのだが、皆と違う異質なものを受け入れがたい空気や雰囲気はそうそう簡単に変えられるものではなく、多くの管理職にはそんなことに時間を割いている余裕や予算などないので、なかなか難しいところなのだ。
だがしかし、僕はこう予測する。
個性感性の差をを認めず万人に平等を強いる世間とやらは、そう遠くない未来に世界から取り残されるだろうと。
不平等感から差別意識さえも生じさせる狭量な日本人こそ世界から見て常識外れでマイノリティであると気づけるようになるまで、転がり落ちていくだろう。
気づいた時には、世界は日本人から遥か彼方へ遠ざかっているだろう。
時代の流れに応じて、考え方や世界標準とされるものは、日々変化していくものなのだ。
変化や変容を受け容れず、従来通り、現状維持に拘りつづけていると、きっと損をするよ、ってね。
思わず、中島みゆきの「世情」を、口ずさんでしまいそうになった。
世の中はいつも変わっているから
頑固者だけが悲しい思いをする変わらないものを何かにたとえて
その度崩れちゃ そいつのせいにするシュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を流れに求めて時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと戦うため世の中はとても 臆病な猫だから
他愛のない嘘を いつも ついている包帯のような 嘘を 見破ることで
学者は 世間を 見たような気になる
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